映画「九月の恋と出会うまで」感想2019-03-20

「九月の恋と出会うまで」の映画を観てきました。

原作者の松尾由美は以前から読んでいる作家で、本作も新潮文庫の初版を2009年に購入しています。

映像作品を観るよりも、圧倒的に小説やマンガを読んできた人間なので、映画やドラマを観る動機は、「原作を読んでいたから」が一番多いです。以前は「あっ、あの小説(マンガ)映画化するんだ。観なきゃ」と高確率で足を運んでいましたが、幾つか観に行った結果、「やっぱり原作の方が良いな」という感想になるパターンが多く、最近は観る機会も減っていました。

今回は、松尾由美作品の映像化がレアだったため(もしかして初?)、嬉しくなって劇場まで行って来ました。

原作を読んだのはもう10年前なので、内容はほぼ忘れていたのですが、予習ばっちりなのもつまらないだろうと、読み返しなしで映画館へ。鑑賞しながら「そうだ、こういう話だった」と徐々に思い出していきました。

感想は、簡潔に言うと、とても良かったです。

もちろん、小説を映画に変換することによる、いろんな差異はあります。
●原作が2004-2005年だったのを2018-2019年に変更したことによる諸々の設定変更
●小説の方が情報量が多いので、尺を合わせるための、幾つかのややこしい事情の削除
●小説は描写・思考・説明・会話で進むのに対して、映像は表情・動作・風景という「画」を見せるという表現の違い

これらは当然ありますが、全て無理なく収まっていたし、原作の一部を重視するあまり、映画自体のストーリーや理屈が破綻するということもなかった。細かい設定も、ストーリーの流れも、意外なほどに原作に忠実で、最近の原作付き映画はこんなに丁寧に制作するものなのかと驚くくらいでした(単に監督の方針によるものだろうか)。映画ならではの印象に残る映像表現もふんだんで、松尾ファンも喜ぶ良い映画化だったと思います。

そんな映画でしたが、ひとつ、興味深い変更点がありました。

起承転結でいうと「転」のあたり。主人公2人がお互いの気持ちをやり取りするけど、うまく噛み合わず、別離に至る、というシーン。原作では、男性が女性への気持ちをはっきりと口にするけれど、女性の気持ちは別にあり、受け入れられない、という展開です。それが映画では、女性が男性へ(若干婉曲に)気持ちを伝えるけれど、男性が自分に自信を持てず、受け入れられない、という男女の役割の反転がありました。

鑑賞後に改めて原作を読み直し、この相違に気づきましたが、別の作品でも似たようなことがあったと思い出しました。

前述の通り映像作品をあまり観ないので、挙げられるのは1作品だけですが、「逃げるは恥だが役に立つ」でも、同様の変更がありました。
ドラマの最終回直前という最大のヤマ場となるタイミングで、男性が女性に対して、相手への配慮に欠けた提案をしてしまい、2人の気持ちが遠ざかる、というシーン。これが原作では、男性はほぼ似たような提案はしていますが、ドラマほどショッキングな扱いではなく、2人の関係性は良好なまま。ただ、女性が今後の指針を見いだせず、次のステップに進めない、という描写になっています。

2作品とも、原作ではどちらかというと「女性が男性に対してずるい(ひどい)態度をとる/男性は女性に対して真摯」という状況だったのが、映像化作品では「女性には特に非がない/男性が女性にひどい態度をとる」という反転を選択しており、それがとても興味深いと感じました。

どうしてこうなったのかを考察します。

まず、どちらも原作者は女性で、主人公も女性。作者自身が「女性のずるさ・ひどさ」を知っているため、自然に主人公にもそういった行動を取らせてしまう。そして異性である男性の登場人物には、どうしてもファンタジーが入り、理想の男性像的な振る舞いをさせる。このため、2作品とも原作では、「女性がひどい/男性は真摯」という展開になるのではないかと思います。

また、「九月の…」は全編一人称のため、読者は女性主人公の思考をトレースしながら読み進めます。彼女がどんな選択をしても、それを「理解できる」ので、男性にひどい態度をとっても読者は納得して受け入れられます。
「逃げるは…」は主人公以外の内面描写もあるので、「主人公だけを理解している」という状況にはなりませんが、比重としては女性主人公の感情・思考の提示が多く、やはり読者が主人公を受け入れやすいという土壌があります。

一方、映像表現の場合、役者の台詞、口調、表情、動きだけで登場人物の心情を表現します。小説では、感情だけでなく思考も伝えられますが、映画は主に感情を表現していて、(長台詞やモノローグを言わせない限り)思考は伝えられないのではないでしょうか。

そして、本作のように、人気の役者を起用した恋愛映画は若い女性がメインターゲットであり、観客は主人公に共感して鑑賞する、ということが念頭に置かれていると思います。女性主人公に非があると、観客は「なんでそんなことするの」と気持ちが離れてしまい、映画への印象が悪くなる。男性主人公に非があり(しかもそれに至る心情に同情できる)、女性は悪くない、被害者だという状況だと、憤慨せずに物語に浸ることができるのではないでしょうか。

まとめると、
●作者と同性の登場人物の方がリアリティが出やすく、異性の方がファンタジー性を帯びやすい。
●小説・マンガは登場人物の感情だけでなく思考も表現できるため、主人公が良くない行動をとっても、読者は理解し、受け入れることができる。
●映画は登場人物の感情は表現できるけれど、思考は伝達できないため、主人公が良くない行動をとると、観客は良い印象を持たない。
●映画は、メインターゲットとなる観客が感情移入する対象が、悪い印象を持たれないよう計算している。

以上のことから、映画内の見せ場において、男女の役割が反転したのではないかと考えます。それに、よく考えると、女性主人公は特に何もしていないけど、男性主人公がすごく頑張って未来を切り拓いた話のような気もするので、そこでバランスをとったのかもしれません。

まあ、もともと、どっちが悪者になろうと、展開に影響しない小事だと思います。個人的には気にならなかったし(原作をほぼ忘れていたこともあり、観覧中は気付かなかった)。